70年も前に日本とインドを繋いだのはこの人だった?!チャンドラ・ボースとは何者なのか?

インドに興味のある人、インドが好きな人、そのような人ならインドを独立へ導いた人物としてネルーやガンディーという名前はよく耳にしますよね。しかし、今インドと日本ではもうひとりのインド建国の父として「チャンドラ・ボース」という人物が注目されているのです。というのもこの背景には、3年前に首相に就任したモディ氏の影響があります。モディ政権は、日本優位で外交を進めるなど親日派として有名ですが、同時に「チャンドラ・ボース復権」とも言われているのです。


本日は、そんな「チャンドラ・ボース」とは何者なのか?モディ政権が「チャンドラ・ボース復権」と言われるゆえんは何なのか?そこに迫ってみましょう。

 

チャンドラ・ボースとは何者なのか?


(左:ガンディーと右:チャンドラ・ボース)

インド建国の父として有名なガンジーや初代首相のネルー。しかしその影に隠れて建国の父として称えられている人物がもう1人いるのです。それがチャンドラ・ボース。イギリスの植民地時代を生き、インド独立へ人生を捧げた人物です。実は、彼の遺骨は東京杉並区にある蓮光寺に眠っています。これほどまでに、日本にゆかりのある人物チャンドラ・ボースとはいったい何者なのか、まずは彼の生涯をみていきます。

エリートを捨てインド独立に人生をかける

ボースは、1897年にインドのベンガル州で、弁護士の父親のもとに生まれます。経済的にも恵まれた家庭で育ったボースはインド最古の大学の1つであるカルカッタ大学哲学科に入学、この大学を2番目に優秀な成績で卒業します。そして、その後イギリスのケンブリッジ大学の大学院に留学し、国際政治と軍事の役割について学びを深めます。ボースはこの頃から頭脳明晰、理知的な人物だったそうです。

1920年にインドへ帰国したボースは、最難関のインド高等文官試験に合格しますが、植民地支配側で官僚として働くことを嫌い、このスーパーエリートになる道を自ら捨ててインド独立運動に人生を捧げる決心をします。ちょうどこの頃からガンディーらの下でインド独立運動が活発化し、ボースも初めは国民会議派の主要な人物として彼らとともに活動を展開していきます。しかし、非暴力主義を説く穏健派のガンディーと即時インド独立をめざす急進派のボースとの間には乖離が生まれ、次第にその溝は深くなっていきます。1939年に、国民会議派議長選挙の際にガンディー・ネルーらがボース不信任に廻ったのを境に、両者の対立は決定的となり、そしてその後は、ガンジディーとネルーらは国内から、ボースは国外からインド独立を目指すようになっていきます。

日本に渡り、共に闘う?

第二次世界大戦が始まると、ボースはイギリスと敵対関係にある国と協力していくことでインドの独立を勝ち取ろうと動き始めます。そこで、彼が注目したのがドイツ、次いで「日本」だったのです。

初めドイツ・ベルリンに渡るものの交渉成立を上手く果たせなかったしボースは、ドイツ海軍と日本海軍の潜水艦、そして飛行機を使い、1943年に遂に日本に渡ります。当時の首相東条英機氏は、ボースの要求から1ヶ月後にやっと面会を果たしますが、人目会ってボースの頭脳明晰さ・人柄に感動し、インド独立への協力と共にイギリスと戦っていく姿勢を示していくのです。

そしてボースは、アジアの開放を旗印にしていた日本の全面協力を得、インド国民軍や自由インド仮政府を率いてインドに侵攻します(インパール作戦)。この作戦は失敗に終わるものの、ボースはインド独立を目指すことをあきらめることなく活動し続けていくのです。

ボースの事故死、彼は今も生きている?

その後1945年、日本の戦争敗戦により、ボースは日本と共にインド独立を目指す姿勢をあきらめざるを得なくなります。そして彼の思想「敵の敵は味方」という言葉にしたがって、ソ連に協力を求めようとソ連へ向かいますが、その途中の飛行機で事故死してしまうのです。

こうして、インドの独立を目前に控えて1945818日にボースは独立を見ずして亡くなりました。

長崎暢子『インド独立 逆行のチャンドラ・ボース』の中には、『インドに行った日本人は、ボースが今でも生きていると信じられているのに驚く。ネルーの生涯のライヴァルであり、急進派としてガンディーに対抗して国外脱出し、独立直前に逝したボースは、いまや独立語のインドが実現できなかった全てのもののシンボルである。インド独立にかけた人々の夢と願望、幻滅の全てえお背負って彼はこれまで「生きて」きた。・・・現在のインドの現状への不満が存在するかぎり、ボースは生きているとの神話はなくならず、彼は生き続けるであろう。』と書かれています。

インド独立に生涯を捧げ、それを見ずして亡くなったチャンドラ・ボース。彼の遺骨は"いまだボースは生きている"と信じているインドではなく、東京都杉並区の蓮光寺に眠っています。インドからはネルー首相ら要人もこのお寺へお参りに来ているのです。

 

あれから70年経った今も


2007年に安倍首相はカルッタにあるチャンドラ・ボース記念館を訪れ、ボースの遺族と面会をしています。

その際に安倍首相は「英国統治からの独立運動を主導したボース氏の強い意志に、多くの日本人が深く感動している」という言葉を残しています。

また、ボースの姪にあたるクリシュナ・ボースさんは「日本の人々がボースの活躍を覚えていてくれるなら、私たちインド人も、英国の植民地支配に抵抗するため、ボースがインド国民軍を組織したことを支援したのが日本だったことを思い出すべきだ」と語っています。

独立当時はネルーやガンディーに注目が集まり、それに対立する人物として見なされていたチャンドラ・ボースですが、70年以上も前に日本とインドを繋ぎ、インドの独立をめざし活動をしていたのです。

 

モディ政権が「チャンドラ・ボース復権」と言われるゆえんとは?


このように70年ほど前に日本にインドとの協力を求めた人物「チャンドラ・ボース」。では、なぜ現首相が「チャンドラ・ボース復権」と言われるのでしょうか?

2014年5月にインド人民党を中心とした国民民主連合政権が誕生し首相に就任したモディ氏。モディ首相はその選挙中にインド独立のリーダー、チャンドラ・ボースに国として文民の最高の勲章を贈ると言明していたのです。ネルーやガンディーが大きく評価される中で、モディ首相は日本と協力する姿勢を示しながらインド建国に尽力したボースを再評価することで、日本との国交を、単に経済的な理由からだけでなく、地政学的、精神的にも、強めようとしている姿勢を示した、それがモディ首相が「チャンドラ・ボース復権」と言われる理由なのです。

ま と め

ネルー・ガンディーとともにインド建国の父と言われているチャンドラ・ボース。インド人と話してみると、ボースはガンディーよりも有名だ、と誇らしそうに言う人もいるほどです。どちらにせよ、これほど国民が自国の独立に尽力した人たちを誇りに思い、現代の政治でまで彼らの名前を引用する、そのような姿にインド人の愛国心、ましてや一種の一体感のようなものさえ感じます。

こうして70年以上も前に両国を繋いだ人物であるチャンドラ・ボースが、また日本が過去にインド独立を影で支援したという事実が、昨今のモディ政権によって再評価されているというのは、とても興味深いものですね。本年2017年は日印友好交流年、またインド独立70周年ということで、日本とインドの関係にも、インドという国自体への関心もますます高まっていくことでしょう。ぜひ、そんな注目の集まる国インドへ訪れ、今自分の目で、その勢いを感じてみてはどうでしょうか。

出典:

http://www.y-history.net/appendix/wh1601-122_2.html

http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/2012/06/post-0209.html

http://golden-zipangu.jp/india-bosu

http://www.nippon.com/ja/column/g00191/

http://www.ndtv.com/india-news/netajis-name-did-not-figure-in-any-list-of-war-criminals-declassified-files-1412895

http://www.afpbb.com/articles/-/2271294

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%B9

 

 

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